2017年11月23日木曜日

【読書録】『「病」の意味』(島田明徳著)

武道や気の修練タオ(仙道)に精通する著者。
島田さんの本は他にも読んだことがありますが、今回は病気についての本を読んだので感想を。
(赤文字は本書抜粋の文です)

2017年11月18日土曜日

久々の投稿 (再出発)

前回の投稿は5/22でした。
放ったらかしでした・・・

この度ブログタイトルを変更して再出発しようと思いました。

2017年5月22日月曜日

『「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く』の最終回

この本を読んで改めて仏教の考え方を学びました。

宗教、哲学、スピリチュアルなどは自己の内面を変えていく、成長させていく方法のひとつであると思いますが、どれも方法というかベクトルが違うように思います。

2017年5月20日土曜日

どのように欲を育てるか 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑪

前回の記事の続きで、「欲=渇愛(タンハー)」を「意欲(チャンタ)」に成熟させるプロセスをどうするかということですが、プラユキさんはこの流れを「心を育てる」と称しています。

その例えとして、「怒り」から「智恵」を生み出し、「熱情」からは「慈悲」を生み出すと言われます。

「怒り」と「智恵」はどちらも知的な営みから生じてくるものであります。
自分自身の意見や見解に固執しているときに、相手から異なった意見、見解が述べられると、とたんに「怒り」となるが、「そういった意見モノの見方があるんだな。」といった感じで理解に繋げていけば「智恵」になる。

また、「熱情」と「慈悲」についても、エネルギーが個に閉塞して、ただ相手に求めるだけだと「熱情」や「情欲」となるが、相手に対して心を開き、相手のハートから生じるエネルギーにも共感し、自身のエネルギーを相手に与えてあげるときに「慈悲」になるということです。

ようするに、「欲=渇愛(タンハー)」のような湧き上がる感情、怒り、慢心、悲しみなど、受け入れて(受容)、気づき、思いやりにより潤いを与え、正しく理解されて、適切な対応が図られたとき、それらの未熟な心が良質な心へと成熟していくということです。

何度も本の中にでてくるように、とにかく心に起きている現象をよく見きわめ、明らめて対応していくことが基本だということです。

普段から行えている人であればよいですが、普段は欲望まみれで自分をコントロールできないような人であれば、まずこういう考えがあるのだという事を知り、少しずつでも生活の中で取り入れていけばよいのではないかと思います。

また、同時に瞑想も取り入れていくことでより容易に心が変わっていくのではないかとも思います。

2017年5月15日月曜日

欲を育てる 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑩

プラユキさん著「苦しまなくて、いいんだよ」も終盤になってきました。

ここでは「欲」「自我」を取り上げます。

私たちが生きていくうえで問題とされる「欲」ですが、プラユキさんの考えは面白いものとなっています。

一般には欲望を悪者扱いされ、「欲を捨てる」とかという言い方をよくします。

以前読んだあるお坊さんの本にも、「欲」は良くないものだから捉われないようにすべしと書かれていました。

僕は以前からいわゆる本能以外の欲、例えば物欲、出世欲、金銭欲などはできれば無いほうが良いと思うが、さて、“成長したいと”いう欲望はどうなのかと疑問に思うことがあります。
そもそもこの『成長したい欲』がなければ、この仏教はもちろん各宗教、また哲学、思想、道徳などに関心を持つことも無いだろうし、肉体的な『成長したい欲』もあるわけで、例えばマラソンを完走できるようになりたいとか、野球の腕をあげてレギュラーになりたいなどの欲もあるわけです。

これも欲だから否定できないと思っていたのです。

プラユキさんは、『欲』には二つの種類があると言われます。

一つ目は『タンハー(渇愛)』
感覚への渇望や、何らかのものを得たい、なりたいという欲望。
破壊したい、消滅させたいという欲求。
この「タンハー(渇愛)」にとらわれると苦しみに陥る。

二つ目は『チャンタ(意欲)』
向上心、大志。
成長方向、あるいは苦しみの解決に向けてのモチベーションになる。

タンハーは苦しみの元になるが、チャンタは苦しみを滅する要素になるとも書かれています。
この文面で腑に落ちた感触がありました。
“成長したい”という欲望は良いものだと解釈できますね。安心しました(笑)

そして、本書の中でさらなる洞察が進みます。

「心のデザインレシピ」として書かれています。

引用

①【タンハー(欲=渇愛)】と【チャンタ(意欲)】を二つに選り分ける。

②【タンハー(欲=意欲)】を育てて【チャンタ(意欲)】に成熟させます。

③【チャンタ(意欲)】を『精進』に発展させます。

④それに『知足(受容)』を加えます。

⑤最後にこれらをサイクル化していきます。
『意欲』を『精進』に繋げ、『受容(知足)』する。
そしてまた『意欲』を持ち『精進』し、『受容(知足)』する。

【タンハー(欲=渇愛)】も【チャンタ(意欲)】も、「何らかの行動を喚起させつエネルギー(動因)」であるということ自体に変わりはありません。しかし、そのエネルギーが「タンハー(欲)」では粗大な感覚的快楽や、その「果」の獲得へと向かい、一方「チャンタ(意欲)」では、真や善といった高次の価値や苦の滅却、そしてそれを実現するための「因」へと向かいます。ですから、そのようなことを自ら理解し、あるいは丁寧に教えられて、そういった方向に心を変容させていく訓練を積んでいくわけです。これを「心を育てる」と称しています。

どうでしょう、理論は素晴らしいのですが、抽象的で、僕はここだけでは、タンハーをチャンタに成熟させていく方法がいまひとつわかりにくく思います。

次回はもうすこし、細かく洞察さてている部分を書いていきたいと思います。

2017年5月11日木曜日

言葉の持つ力について「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑨

プラユキさんは、言葉の持つ性質を「たかが言葉、されど言葉」ということで、「言葉の無力さ」と「言葉の(強大な)力」と“言葉の二つの作用”を説かれています。

例えば、他人から浴びせられた言葉により傷ついてしまったとします。その事の解釈のしかたや、理解のしかたで後になるとその「傷」が生じていなかったのかのように消えていくようなことがあると思います。
また、自己嫌悪の為、否定的な言葉を自分に投げかけたり、貼り付けてしまう場合、後に自分を許したり、あるがままを観る智恵により消えてしまうことがあると思います。
仏教の「智恵」により、そういった「言葉の無力化」を促進していく作用があるということ。そういった考えが「たかが言葉」ということだそうです。

一方、言葉を受けることもあれば、当然与えることもあるわけで、相手に対して発した言葉が意としていなくても、傷つけてしまうこともあるわけです。

ひとつひとつの言葉に影響をうけ、傷つくことがあり、そして気分の抑揚も起きたりします。

話すときには、相手への気配りを忘れず、細心の注意と思いやりを持って、一つ一つ適切な言葉を選んで丁寧に発していくことが「されど言葉」の意味するところのようです。

この相手への気配りこそが慈悲の心であるといえます。

この本では書かれていませんが、僕としては負の作用の危険性がある「たかが言葉」もありますが、正(プラス)の意味でも「たかが言葉」も大いにあると思います。

言葉により励まされたり、勇気づけられたり、癒されたり、これも良い意味での「たかが言葉」だと思います。

まとめますと、
「たかが言葉」=「智恵」「言葉の無力さ」
「されど言葉」=「慈悲」「言葉の(強大な)力」
ということになります。


【読書録】『「病」の意味』(島田明徳著)

武道や気の修練タオ(仙道)に精通する著者。 島田さんの本は他にも読んだことがありますが、今回は病気についての本を読んだので感想を。 (赤文字は本書抜粋の文です)