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『「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く』の最終回

この本を読んで改めて仏教の考え方を学びました。

宗教、哲学、スピリチュアルなどは自己の内面を変えていく、成長させていく方法のひとつであると思いますが、どれも方法というかベクトルが違うように思います。

その中にある仏教とは日本人には馴染みがあるとはいえ、伝来して浸透してきた今までの過程が複雑だったこともあり、また伝来時と現在で文明の進化が違い、環境が違い、生命という概念や価値観も変わっていて、日本人が仏教や宗教に対する思いが昔と今では違うように思います。

いわゆる何かを崇め、すがるようなものを宗教ととらわれがちですが、仏教を学んでいくと、そこには崇拝や依存は殆どなく、自らをどのように変えていけばいいかという自助の精神が根本にあります。

元はたった一人ブッダの教えではありますが、上座部仏教と大乗仏教、日本の各宗派の仏教など複雑化されてはいますがそれぞれに学ぶことがあるのでこれからも学んでいきたいと思います。

この本の最後に書かれている文章を紹介しておきます。

引用

ある者がブッダにこう問いかけてきました。

「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食だけとるだけであるが、その顔はどうしてあのように明朗なのでしょうか」

ブッダはこのように答えました。

「彼らは過ぎ去ったことを思い出して悲しまない。未来のことにあくせくすることもない。ただ、現在に心を込めて暮らす。だから顔色が明朗なのだ。ところが迷い人は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れている まるで刈られた葦のように」


行きつくところは「今を生きる」「気づいて生きる」という事です。
しかし、凡人な僕などはなかなか難しく、日々精進が必要なわけです。

このブログでは今まであまり瞑想については取り上げませんでしたが、本書また、他のプラユキさんの本にはブッダの瞑想法や気づきの瞑想法も載っております。

ブッダの教えと共に瞑想も行うことにより気づきを高め、自己を高めることと思います。

プラユキ・ナラテボーさんの本(amazon)

どのように欲を育てるか 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑪

前回の記事の続きで、「欲=渇愛(タンハー)」を「意欲(チャンタ)」に成熟させるプロセスをどうするかということですが、プラユキさんはこの流れを「心を育てる」と称しています。

その例えとして、「怒り」から「智恵」を生み出し、「熱情」からは「慈悲」を生み出すと言われます。

「怒り」と「智恵」はどちらも知的な営みから生じてくるものであります。
自分自身の意見や見解に固執しているときに、相手から異なった意見、見解が述べられると、とたんに「怒り」となるが、「そういった意見モノの見方があるんだな。」といった感じで理解に繋げていけば「智恵」になる。

また、「熱情」と「慈悲」についても、エネルギーが個に閉塞して、ただ相手に求めるだけだと「熱情」や「情欲」となるが、相手に対して心を開き、相手のハートから生じるエネルギーにも共感し、自身のエネルギーを相手に与えてあげるときに「慈悲」になるということです。

ようするに、「欲=渇愛(タンハー)」のような湧き上がる感情、怒り、慢心、悲しみなど、受け入れて(受容)、気づき、思いやりにより潤いを与え、正しく理解されて、適切な対応が図られたとき、それらの未熟な心が良質な心へと成熟していくということです。

何度も本の中にでてくるように、とにかく心に起きている現象をよく見きわめ、明らめて対応していくことが基本だということです。

普段から行えている人であればよいですが、普段は欲望まみれで自分をコントロールできないような人であれば、まずこういう考えがあるのだという事を知り、少しずつでも生活の中で取り入れていけばよいのではないかと思います。

また、同時に瞑想も取り入れていくことでより容易に心が変わっていくのではないかとも思います。

欲を育てる 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑩

プラユキさん著「苦しまなくて、いいんだよ」も終盤になってきました。

ここでは「欲」「自我」を取り上げます。

私たちが生きていくうえで問題とされる「欲」ですが、プラユキさんの考えは面白いものとなっています。

一般には欲望を悪者扱いされ、「欲を捨てる」とかという言い方をよくします。

以前読んだあるお坊さんの本にも、「欲」は良くないものだから捉われないようにすべしと書かれていました。

僕は以前からいわゆる本能以外の欲、例えば物欲、出世欲、金銭欲などはできれば無いほうが良いと思うが、さて、“成長したいと”いう欲望はどうなのかと疑問に思うことがあります。
そもそもこの『成長したい欲』がなければ、この仏教はもちろん各宗教、また哲学、思想、道徳などに関心を持つことも無いだろうし、肉体的な『成長したい欲』もあるわけで、例えばマラソンを完走できるようになりたいとか、野球の腕をあげてレギュラーになりたいなどの欲もあるわけです。

これも欲だから否定できないと思っていたのです。

プラユキさんは、『欲』には二つの種類があると言われます。

一つ目は『タンハー(渇愛)』
感覚への渇望や、何らかのものを得たい、なりたいという欲望。
破壊したい、消滅させたいという欲求。
この「タンハー(渇愛)」にとらわれると苦しみに陥る。

二つ目は『チャンタ(意欲)』
向上心、大志。
成長方向、あるいは苦しみの解決に向けてのモチベーションになる。

タンハーは苦しみの元になるが、チャンタは苦しみを滅する要素になるとも書かれています。
この文面で腑に落ちた感触がありました。
“成長したい”という欲望は良いものだと解釈できますね。安心しました(笑)

そして、本書の中でさらなる洞察が進みます。

「心のデザインレシピ」として書かれています。

引用

①【タンハー(欲=渇愛)】と【チャンタ(意欲)】を二つに選り分ける。

②【タンハー(欲=意欲)】を育てて【チャンタ(意欲)】に成熟させます。

③【チャンタ(意欲)】を『精進』に発展させます。

④それに『知足(受容)』を加えます。

⑤最後にこれらをサイクル化していきます。
『意欲』を『精進』に繋げ、『受容(知足)』する。
そしてまた『意欲』を持ち『精進』し、『受容(知足)』する。

【タンハー(欲=渇愛)】も【チャンタ(意欲)】も、「何らかの行動を喚起させつエネルギー(動因)」であるということ自体に変わりはありませ…

言葉の持つ力について「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑨

プラユキさんは、言葉の持つ性質を「たかが言葉、されど言葉」ということで、「言葉の無力さ」と「言葉の(強大な)力」と“言葉の二つの作用”を説かれています。

例えば、他人から浴びせられた言葉により傷ついてしまったとします。その事の解釈のしかたや、理解のしかたで後になるとその「傷」が生じていなかったのかのように消えていくようなことがあると思います。
また、自己嫌悪の為、否定的な言葉を自分に投げかけたり、貼り付けてしまう場合、後に自分を許したり、あるがままを観る智恵により消えてしまうことがあると思います。
仏教の「智恵」により、そういった「言葉の無力化」を促進していく作用があるということ。そういった考えが「たかが言葉」ということだそうです。

一方、言葉を受けることもあれば、当然与えることもあるわけで、相手に対して発した言葉が意としていなくても、傷つけてしまうこともあるわけです。

ひとつひとつの言葉に影響をうけ、傷つくことがあり、そして気分の抑揚も起きたりします。

話すときには、相手への気配りを忘れず、細心の注意と思いやりを持って、一つ一つ適切な言葉を選んで丁寧に発していくことが「されど言葉」の意味するところのようです。

この相手への気配りこそが慈悲の心であるといえます。

この本では書かれていませんが、僕としては負の作用の危険性がある「たかが言葉」もありますが、正(プラス)の意味でも「たかが言葉」も大いにあると思います。

言葉により励まされたり、勇気づけられたり、癒されたり、これも良い意味での「たかが言葉」だと思います。

まとめますと、
「たかが言葉」=「智恵」「言葉の無力さ」
「されど言葉」=「慈悲」「言葉の(強大な)力」
ということになります。


口の四善業 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑧

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「八正道」の中にもよき言葉を使うという「正語」という項目がありましたが、ブッダは善口(善き言葉)として「口の四善業」を教えられています。

引用

「口の四善業」

1.不妄語(ふもうご)

嘘や偽りを言わず、正直に、真実の言葉を語る

2.不両舌(ふりょうぜつ)

人の仲を裂いてしまうような言葉は言わず、仲たがいしている人たち(自分と相手の関係も)を仲直りさせてあげるような言葉を語る

3.不悪口(ふあっく)

粗野でぞんざいな言葉を使わず、上品でやさしい言葉を話す

4.不綺語(ふきご)

無駄話はしないようにして、理にかなった、実のある話を、時と場所にふさわしく語る

この内容から、前回の記事の「無財の七施」と同じように道徳的なものと感じられますね。
言い換えれば、子供に言い聞かせるような言葉でもあります。

嘘をついてはいけない。人とは仲良くしましょう。言葉遣いは丁寧に。無駄話はやめましょう。
など。

なんて簡単なことか僕も思うのですが、前回と同様にこんな簡単な事さえもできていないのであれば、やはりいけないのではないかと。

まして修行をするという心構えがあるならば、座禅や瞑想も大切ですが、日常の基礎として持っておくべきではないかと思います。
と自分に言い聞かせます。


無財の七施「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑦

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一般に「布施」といえば寄付という意味で使うことが多いですが、上座仏教では「布施」を大きく「財施」と「法施」の二種類に分けているそうです。

引用

「財施」はお金や物品を与えること、「法施」は必要な知識を与えたり、善き教えを伝えたりすることです。
「財施」は現実生活のための直接的な支援であるのに対し、「法施」は当人がその後自らに頼り自助できるようになる為の支援と分類してもいいでしょう。
たとえれば、果物を直接与えるのを「財施」としたら、果物の栽培方法を教えるのが「法施」ということになりましょう。

また、財施でも法施でもない「布施」というものが紹介されています。
財産や地位、知識はなくとも布施はできるというもので、自身の得が積めるという教えで、大乗仏教の「雑宝蔵経」(ぞうほうぞうきょう)という経典の中にある「無財の七施」というものです。


引用

【無財の七施】

1.眼施(げんせ)
やさしいまなざしで見つめる

2.和眼悦色施(わげんえつしきせ)

なごやかな顔つきで接する

3.言辞施(ごんじせ)

あたたかい思いやりのある言葉を語る

4.身施(しんせ)

自分の身体を使って奉仕する

5.心施(しんせ)

他者を気遣い、心を配る

6.牀座施(しょうざせ)

席や場所を譲る

7.房舎施(ぼうしゃせ)

雨風をしのぐ場を与える

思ったのですが、どの項目も優しさ、相手を思いやる親切心が無いと難しいものです。
その相手を思いやる心があれば普段から実行できているものと思いますが、なかなか言葉遣いや顔つき、まなざしなどは思いもよらない態度や発言などすることもあるかと思います。
また道徳的ではあり、例えて言えば論語のような古典にも出てきそうで、ありふれているような言葉という感じもありますが、実際実行できているか問うてみるとなかなかできていないこともあります。
普段の生活の基礎と考えて、心得て生きて行きたいものです。

これらは得が積めるということもありますが、ただ行う事が目的であってはいけないと思いますし、自発的に行えるようになるには、そこにはやはり優しさ、謙虚さがないと本当の布施にはならないように思います。



七善友法 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑥

仏伝にはブッダは弟子たちのコミュニティを訪問するシーンがいくつか描かれているそうです。

皆仲良くしているか関係性を気づかったり、修行が順調であるか尋ねたりしていたようです。
ブッダがスムーズな修行の前提として、善き人間関係を大事にしていたことがわかります。

また善友の大切さを説かれた言葉として以下のようなブッダの言葉があるようです。

引用

「比丘たちよ。太陽が昇るとき、前兆として夜明けの光が見えるごとく、善友があることは比丘たちにとって八正道を生じる案内者であり前兆である」
(比丘(びく)とは、修行僧の意)

「善友ほど、まだ生じていない善法を生じしめ、すでに生じた悪法を衰退させる法はない。善友を持てば、まだ生じていない善法が生じ、すでに生じている悪法は衰退する」

まさに修行において善友を重要視しておられます。
しかし、善友とはいかなるものかわかりませんが、なんとブッダは定義されておられたようです。

ブッダは善友の資質を以下のように挙げています。

引用

【七善友法】
1.愛らしく、親しみが感じられる
2.頼りがいがあり、尊敬できる
3.智恵深く、理解力があり、たえず自己の向上に努めている
4.話し方を知り、巧みな方便を駆使して上手に助言や忠告ができる
5.どんな内容の相談事、質問や批判であっても熱心に傾聴できる
6.どんなに複雑、難解な内容も、明確に説明ができ、より深い学びへと導いてくれる
7.道理にあわないこと、誤った道、破滅への道へと迷わすことがない

これを読んで率直にこんな人と友人になれるならなりたい。と思ったと同時に、こんな聖人君子のような人と出会うことはさぞ難しいなと・・・

しかし、類は友を呼ぶということで、
まずは自分がこのような人間になれるよう日々努力しながらいきていきたいと思います。

日々精進

智恵と慈悲 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑤

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今回は智恵と慈悲というキーワードです。

以下引用

ブッダの教えは「智恵」と「慈悲」の二本柱で成り立っています。
心の奥まで洞察し、苦しみが生じる根本原因たる無知の闇を照らす「智恵」。
そして「慈悲」とは、他者(衆生)を慈しみ、幸せを与え、また、苦悩する他者の苦しみを取り除こうとする心です。
両者はお互いを補完しながら自他の苦しみを滅していきます。

簡単に言えば、自己の成長、幸せを「智恵」、他者の幸せを「慈悲」と考えればよいでしょうか。
補完しながら滅していくというのは興味深いです。

引用
「智恵」を得るためには、身体行動(身)と言葉(口)という具体的な行動を調えるということから始めて徐々に心(意)という抽象度の高いものを調えていくという順序。

「慈悲」の実践は、まず心の中で慈しみの心が育まれ、それが身体や言葉による具体的行動によって表現されているという事です。

「八正道」は、身・口・意における実践項目すべてが含まれた「統合的実践」といえるでしょう。

智恵を得るための具体的方法はまず、身体的行動と言葉を調え、後に心が調えられるという順序。
そして慈悲は逆の流れで、はじめに心(想い)があり、そこから身体や言葉の行動に移るという順序というわけです。

まさに自己啓発的な教えですね。
なによりも自分の行動、思想、観念をどうするのかが大切です。

ここでまた「八正道」がでてきましたが、やはり自己の成長と幸福を得るため、また苦しみを滅する為の方法として、やはり「八正道」が大切だと思いしらされますね。



四聖諦と八正道 「苦しまなく、ていいんだよ」を読み解く④

前回の記事で触れた「四聖諦」。
ブッダが悟りを開いた後、最初に教えを説いたのが「四聖諦」(ししょうたい)(または四諦)と言われています。

ここではプラユキ氏の著書をベースにしてまとめたいと思います。

前回にも書きましたが、「苦」はあるけれども、よく見て対処すれば滅することができるというものでした。
「諦」は“あきらめる”という意味ではなく、“明らかにする”“はっきりとする”“見きわめる”という意味です。

四聖諦は4つ段階があります。

①苦諦(くたい)
苦しみの現象の認知。
自身に生ずる苦に気づき、それを対象化し、しっかりと受け入れて消化を図る。

②集諦(じったい)
その原因の確認。
無明・痴・渇愛・欲・執着に気づき、正しく対応する。

③滅諦(めったい)
苦しみの終滅

④道諦(どうたい)
苦しみを滅する実践方法

となります。


因果関係で考えれば、集諦が因で苦諦が果です。
そして、道諦が因で滅諦が果となります。

重要な「③道諦」とは具体的にどのような方法なのかもブッダは提示されています。

それが「八正道」という教えです。

八正道は名のとおり8つの項目から成り立ちます。

①正見
四聖諦や因縁関係でものごとを見、特定の見解にハマり込まない中道的な見方。

②正思
欲や怒りに染まった思考、対象を破壊したり傷つけたりといった思念のパターンを自覚して、分かち合い、調和しあう方向に心を向ける思考。

③正語
偽らず、やさしく、調和を育む有意義な言葉の使い方。

④正業
いのちを傷つけたり、盗んだりすることのない行為。

⑤正命
生命の売買、心身を蝕む薬物の売買、武器の売買などを避けた生き方。

⑥正精神
悪を取り除き、防ぎ、善を維持し、育み、完成させようとする努力。

⑦正念
心身に起こっていることをありのままに自覚する気づき。


心が落ち着き、同様や錯乱せずに集中して安定した状態。  

四聖諦における苦しみの確認作業を正しく行うだけでもかなりやわらぎ軽減されるとされています。
八正道の⑦正念がその役割を果たすからとされています。

ようするに今起こっていることを気づき、確認することが非常に大切だということがわかります。

②③④⑤あたりは道徳的な感じが強いですが、そこはベースとして、その他を日々の生活に取り入れてゆくことができるか、できているかが肝心だと思います。

また、この八正道は、簡潔でありますが、その反面、解釈が難しく奥が深いように思い…

苦しみについて 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く③

生きていると誰にでも「苦しみ」は生まれてきます。
ブッダ・釈迦は「苦しみ」をどうとらえていたのか、どう対処すればよいと説いたのでしょうか?

仏教におけるテーマ 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く②

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さて、書名にもなっている「苦」というテーマですが、なぜ幸福を求めるというテーマではないのかという理由を以下のように書かれています。