2019年1月27日

白隠禅師 夜船閑話


















白隠禅師の原文と現代語訳が記載されているものです。
病気に悩まされていた白隠禅師が京都の白幽師を訪ねて、「内観の法」と「軟蘇の法」を教わるという小説スタイルの本です。

今僕は実践している小出遥子さんのラジオ瞑想(ブログ)で以前取り上げられていたのですが、「軟蘇の法」がそのラジオ瞑想で行う“TANDENメソッド”に似ているとのことで興味を持ち読んでみました。

白隠禅師のことは過去に時々参加していた座禅会で坐禅和讃を唱えていたので名前は知っていたのですが詳しくは知りませんでした。

どこまでがフィクションなのかは不明ですが、この二つの方法は今でも継がれているので優れているものだとは思いますが、何よりTANDENメソッドに近いものがあり面白いものでした。


以下本より抜粋引用いたします。

内観の法 
まだ眠りにつかず目を閉じない時に、長く両足をのばし、強く踏みそろえ、全身に籠る天地根元の気をへそ下の下腹部、腰と足、足のうら土踏まずに充たしめ、
いつも次のように観念するといい。
 
わがこの気海丹田(へその下腹部)腰・脚・足心(土踏まず)そのまますべて是我が本来の面目(本心・本性)である。
その面目(顔つき・様子)はいかなる様子をしているか?
我が此の気海丹田はそのまますべて「唯心の浄土」(浄土は我が心)である。
その浄土はいかなる荘厳があるか。
我がこの気海丹田はそのまますべて「己心の弥陀」(弥陀はおのれ)である。
その弥陀はいかなる法を説くか?
繰り返し繰り返し常にこのように観念すべきである。
観念の効果がつもると、一身の「元気」がいつの間にか腰・脚・土踏まずの間(かん)に充ち足りて、臍下丹田・下腹部がひょうたんのように張って力があること、あたかも蹴鞠に使う革製の鞠をまだ篠打ちしない時のようえあろう。
 
※唯心の浄土  
禅家では我が一心の外に浄土なしとする。
※己心の浄土
阿弥陀仏は自己の外になしとする。

そもそも生命を養い長寿を保つに必要なことは、先ず身体を鍛えることである。
身体を鍛えるためには霊妙な生命力たる「神気」を臍下丹田に集中させることが大切である。
「神」が集中すれば「気」というやや物質的な生命力が集まってくる。
気が集まるときにはそっくりそのまま私の真の錬丹が出来る。
真丹ができれば身体が堅固になる。
身体が堅固になれば神気が完全になり、神気が完全になれば寿命が長くなる。
これは仙人の九転還丹(くてんげんたん)の秘訣に契(かな)っている。
丹は決して外なるものではなく、己れの内なる物たることを知るべきである。
ひたすら心火を下げて、気海丹田の間に神気を充たしめるにあるのみである。
~中略~
禅病を治療し疲労を救うのみでなく、禅の奥義・悟りの問題について長い間解決を求めていた人々は、
内観の功によって疑問のかたまりが解け大いに手を打って大笑する程の大歓喜を得ることだろう。
 

火の性は燃え上がるにあるからこれを下さなければならない。
水の性は下るにあるから是を上らせなければならない。
水が上り火が下る。
是を名付けて“交”という。
交わる時を易では“既済”(きさい)という、
交わらない時を“未済”(みさい)という。
交は生の貌(かたち)、
不交は死の貌である。
・李士才
明時代の医家「医宗必読」等多くの医書を遺した。

古人がいうには、“相火が上りやすいのは身の苦しむところであり、水を補うのは火を制するためである”
思うに、火には君・相の二義がある。
君火は一心の主であり、相火は宰相である。
この相火にも二種がる。腎と肝である。
肝は雷に比せられ、腎は竜に比せられる。
それで、竜を海底に納めておけば、決して飛び上がる竜もいないであろう。
海も沢もいずれも水でないものはない。
これこそ相火の上り易いのを制止する語ではないか。
あなたが若し心炎・意火・心火をとり静め、これを丹田下腹部と、足の土踏まずの間におくならば、胸の中が自然にすずやかに、あれこれ思い煩うことは少しもなく。一滴の識浪情波なく、心の波が立つことは全くなくなる。

軟蘇の法 

たとえば色彩や香気が清らかで、鴨の卵のような大きさの軟蘇を頭の上にひょいと置いたと仮定する。
そのにおいと味わいは何とも言いようもない位すばらしいものだが、それが頭全体を潤し、次第にじわじわと辺りを潤しながら下って来て両肩量ひじに及び、両乳、胸と腹の間、肺、肝、腸、胃、背骨、腰骨、と次第にそそぐ。
この時、胸中にたまった五臓六腑の気のとどこおり、疝気(せんき)やその他局部的の痛みが、心気の降下に従って降下すること、水が下に流れるようであり、はっきりその音が聞こえる。
蘇は全身を廻り流れ、両脚を温かくし、足の土踏まずに至ってとどまる。
 
修行者はそこで再び次の如く観ずずべきである。
じわじわと潤しながら流れ下りる蘇の余流・支流が、積もり堪え(たたえ)、暖めひたすことは、あたかも世の良医が種々の妙なる香りのする薬を集め、是を湯で煎じてふろおけの中に湛え、自分の臍より下をつひたすようなものだ。

途中に出て来る“君火”と“相火”東洋医学や気功にもでてくるようで、興味がありますがいまいちわかりませんでした(^^;



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