2017年5月11日

言葉の持つ力について「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く⑨

プラユキさんは、言葉の持つ性質を「たかが言葉、されど言葉」ということで、「言葉の無力さ」と「言葉の(強大な)力」と“言葉の二つの作用”を説かれています。

例えば、他人から浴びせられた言葉により傷ついてしまったとします。その事の解釈のしかたや、理解のしかたで後になるとその「傷」が生じていなかったのかのように消えていくようなことがあると思います。
また、自己嫌悪の為、否定的な言葉を自分に投げかけたり、貼り付けてしまう場合、後に自分を許したり、あるがままを観る智恵により消えてしまうことがあると思います。
仏教の「智恵」により、そういった「言葉の無力化」を促進していく作用があるということ。そういった考えが「たかが言葉」ということだそうです。

一方、言葉を受けることもあれば、当然与えることもあるわけで、相手に対して発した言葉が意としていなくても、傷つけてしまうこともあるわけです。

ひとつひとつの言葉に影響をうけ、傷つくことがあり、そして気分の抑揚も起きたりします。

話すときには、相手への気配りを忘れず、細心の注意と思いやりを持って、一つ一つ適切な言葉を選んで丁寧に発していくことが「されど言葉」の意味するところのようです。

この相手への気配りこそが慈悲の心であるといえます。

この本では書かれていませんが、僕としては負の作用の危険性がある「たかが言葉」もありますが、正(プラス)の意味でも「たかが言葉」も大いにあると思います。

言葉により励まされたり、勇気づけられたり、癒されたり、これも良い意味での「たかが言葉」だと思います。

まとめますと、
「たかが言葉」=「智恵」「言葉の無力さ」
「されど言葉」=「慈悲」「言葉の(強大な)力」
ということになります。


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