2017年5月2日

苦しみについて 「苦しまなくて、いいんだよ」を読み解く③

生きていると誰にでも「苦しみ」は生まれてきます。
ブッダ・釈迦は「苦しみ」をどうとらえていたのか、どう対処すればよいと説いたのでしょうか?
今回は第一章の「苦しみ」のテーマを取り上げます。

(引用)
ブッダがすべての苦しみの終滅を果たしたあと、最初に説かれた教えが四聖諦(ししょうたい)という教えです。

「苦しみとしっかり向き合い(苦諦)、その原因を知り(集諦)、正しい方法で取り組みなさい(道諦)。さすれば誰もが苦しみを滅することができる(滅諦)」という四つの要素で構成される苦しみからの脱却の原理です。

この教えには、「苦しむ義務はないんだよ」「苦しみは自分で解決できるよ」「苦しみを滅する方法もちゃんとあるよ」という、悩み苦しむすべての人に大きな希望を与えるメッセージが込められています。

注目すべきは、このブッダの宣言は、「人間なんだから苦しむのは仕方ない」「心が不調をきたしたら、病院で薬をもらうしかない」「苦しいときは神様仏様に救いを請いなさい」といったような、一般的な苦しみへの対処法とは異なっている点です。(一部要約)

いうなればブッダは「自力による救済の可能性」を示唆していたということになりましょう。

そして、それが間違いなく誰にとっても可能であるとして、その方法についても段階を踏みながら、微に入り細をうがち懇切丁寧に示してくれています。

日本では「一切皆苦」という仏教用語がよく知られていることもあってか、「人間に苦は付きものだから諦めなさい(=苦しみとの取り組みを断念して、それを甘受しなさい)」と仏教は教えていると誤解されている人が多いようです。

実際は、「苦諦」の「諦」は一般的に使われている「断念する」という意味ではなく、原義である「はっきりと見る。明らかに見きわめる」の意です。

すなわちブッダは、苦しみとの対応に関して、まず生じてきたその苦しみにしっかりと向き合って、はっきりと見ることを促し、その苦に対して果たさなければならない私たちの任務とは、ただ「知り尽くすこと(知悉・遍知)」であると説かれているのです。

引用が長くなりましたが、非常に論理的です。

そして前回にも書きましたように自己によりものごとを解決しようと考えるところがブッダの教えです。

苦しみや困難に出会ったとき、正面から向き合い、何が自分を苦しめているのか?
何に苦しんでいるのか?ということをまずは突き詰める、知り尽くすことから始めようということだと思います。

さらに続きます

(引用)
このところは以下の二つの意味で非常に大事なポイントだと思います。

一つ目にブッダは「苦しみ」はただ見きわめ、知り尽くす対象であり、苦しむ義務は無いとしている点です。 すなわち苦しみに苛まれたり、翻弄されたり、ハマりこんだりすることは正しいことではないし、その必要もまったくないと言っているわけです。

二つ目に、生じてきた苦しみという現象それ自体に対しては、認知するだけでよく、具体的な働きかけはしなくてよいとしている点です。

なぜなら、苦という現象はなんらかの「原因」によって生じた「結果」であり、単なる「症状」にすぎないからです。

今ここに生じている苦をあるがままに見つめていく。するとその原因がおのずと理解されてきます。それに対して適切に働きかけていくことが大事だということです。

この「苦しみ」の原因を理解し、それを滅していくための適切な働きかけをしていくのが「四聖諦」の二番目以降の「集諦」「滅諦」「道諦」にあたります。

①つめのポイントは救われますね。はっきりと「苦しむ義務は無い」とおっしゃっています。

そして②つめは難解です。「認知するだけでよい」とはありますが、放っておけば良いという意味ではなく、見つめていくことにより原因がおのずと理解されてきます。とあります。

このあたりのニュアンスが微妙で難しいかと感じました。

「苦」は認知、知悉(ちしつ)(知り尽くすこと)をして、見つめていくことが重要であり、
次に原因が理解されれば、そこで対処を始めるということですね。

言い換えれば、原因がわからなければ先に進めないよって事ですか・・

そして四聖諦における二番目以降では、対処してく方法を説かれているわけです。

続く

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