2018年8月12日

「ほんとうのいのち」に従って生きること(大峯顯)(読書録)

引き続き、小出遥子著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』の読書録です。

今回は第6回(最終回)、専立寺前住職の大峯顯氏との対談です。

今回も前回の釈徹宗氏と同じく浄土真宗のお坊さんです。

またも浄土真宗の方に「さとり」について尋ねます。
これはどういうことか?と思ってしまいました。
しかし、読んだ感想は「信心」という「さとり」が見えてきたのです。
そして興味も湧いてきました。

“特別な心境になるというようなことが「さとり」にされてしまっている。でも本当は、真実のことばを聞いて、それに従って生きるということ、そういうあり方を指すものでしょう。”
小出氏は、「ほんとうのことば」(真実のことば)は、「ほんとうのいのち」だと説明します。

また、浄土真宗には「さとり」がないが、「信心」があると言われます。
では、信仰とも違う、信心とは何か?

“なにかを信ずるというのが、伝統的に宗教の立場としてあったけれど、もうこのことばは不正確になり、軽くなった。いまや「信ずる」ということが、単なる「思い込む」ということにすり替わってしまった。宗教は「思い込み」ではなく「気づくこと」だという説明は正確だと思います。”
確かにただ闇雲に思い込んだらよいというものではありません。
それこそ怪しい団体に刷り込まれて「思い込み」になることだってありますから。

禅宗や瞑想で出て来る「気づき」がここでも出てきました。

“「信じる」 とは対象との間に距離があるように感じるが、でも実は、神も仏も、もっと直接的に、自分と一緒にいるものなんです。向こうにそういう仏がおって、自分がこっちにおる。そういう風に距離感があったら思い違いなんだ。”
非常にわかりやすい例えです。
結局は自分と信仰する対象が分かれているということではなく、同じであると「思う」 「実感する」ことが重要なのだと思います。
それがただ「信じる」ということの違いで、そこに「気づく」ことが難しいのだと思います。


小池氏は過去に肉体だけが「自分」ではないということに気がついたことがあるそうです。
すべてが「わたし」で、生まれてもいないし、死ぬこともないと。
「ほんとうのいのち」というものに理屈を超えたところで触れられたそうです。
これは「絶対感」を破り、「相対化」が起こったといいます。
ここでは魂という言葉は使っていませんが、この肉体が借りもので、その中に自分(魂、いのち)が宿っているという感覚なんだと思います。
僕なんかは理屈でわかっていても、実感したかと問われたら、自信が無いわけです・・・

“なんのためにここに来たのだろう。なんのために生まれてきたんだろう。ここはどこだろう。いま生きているのはいったいどういうことだろう。そして死ぬとはどういうことだろう。ってこの当たり前の問いにいっぺんも襲われないのは、人間としてどこかおかしいんじゃないかと、僕は思うね。これは人生そのものの問い。偶然の問いじゃなくて、問わざるを得ない問い。人生そのものが持っている問いですよ。”
 大峯氏は過去に手術を受けた際、集中治療室でまだ意識が戻っていない状態なのに、医師の「手術は終わりました」という呼びかけに「はい」と答えたそうです。
しかも、大峯氏自身もそう答えたのを記憶しているそうです。
そこで南無阿弥陀仏を称えるとはこういうことかと理解したそうです。
阿弥陀さまの呼びかけは意識上では聞こえない。でもほんとうは聞いている。だから「はい」と返事ができたと。

“阿弥陀さまの「目を覚ましなさい」ということばが本当に聞こえたら、目を覚ますんだ。教学者はあれこれ難しい議論をするけれども、実際に聞こえたら、小難しい理屈抜きでいっぺんにわかる。(それが)「気づき」、「信じる」という間延びした体験じゃなく、距離がない。向こうから呼んでいるということは、そのままこちらが応えているということで、阿弥陀さまとの距離がない。そこに理屈はいらない。”
 具体的に阿弥陀さまの声というものがどのようなものかは説明がありませんので、勉強が必要です。しかし、距離が無い、理屈じゃないということに説得力があります。


【宇宙から「いのち」を与えられているということ】

先ほどの阿弥陀さまの声ではなくても、実は普段の生活に同じようなことが存在していると。
例えば、息をするのは自分の意識ではない、肺は自分の意識で動いていない、腸も心臓も自分の意思はなにも影響を与えていない。
ということは自分のものじゃない。
すでに与えられたもの。宇宙(という概念)から与えられたもの。
それが「他力」ということだと。

“「さとり」という言葉を使うならそこで使えばいいんです。自分の内蔵は自分の意思で動いていないということがほんとうにわかった。そのことが「さとり」ですよ。”
 煩悩とは凍り付いた水の状態であり、仏さまの声が聞こえたら、自我の枠の中で
凍っていた「私」が溶ける。
凍りは自分で溶けようとはしない。でも呼びかける慈悲の声がなんとかしてくれると。

“仏は氷を溶かしたい一心で、罪悪深重の衆生を自分と同じものとしたい。だから光となって、慈悲となって入ってくる。
しかし、そこに人間が考えるような理由はないんだね。分別や計算なしに、ただ入ってくるものを仏という、と。
なんで清浄な仏さまが、罪悪深重の凡夫の世界の中に入ってくるのかと誰でも問うが、そういう問い自体が凍りついているんだな。
ほんとうの問いはね、やっぱり「溶かしてもらいたい」という気持ちひとつなんですよ。”
 どうして氷としてうまれなくちゃいけなかったのかという問いは、「問い」ではなく「疑い」だと。

我々はなぜ苦しむのか、欲が深いからなのか?と。そう考えてしまいますが、欲が苦しみの原因なのだと。

“そうではなくて、欲に疑いがくっついているからであり、疑いの心が苦しみのもとになっている。
欲があること、煩悩自体は悪ではないが、そこに煩悩に対する疑いが共存している。
それが凡夫の苦しみの真の原因です。
つまり、煩悩を腹の底から認めていない。どこか計らいがあり、中途半端になってしまっている。
煩悩の底まで行ったら、疑いがなくなってしまうんだ。”
説得力がありますね。わかる気もします。こういう方向性もあるのだと否定はしません。
しかし、中途半端な僕なんかは、まだ疑いだらけです。
そもそもこれが仏教なのかとの疑いもあります。
まだまだ道は遠いです。


親鸞さんは、歎異抄でこう言っているそうです。
“自分はお浄土への道と思って南無阿弥陀仏をしていない。お浄土への道だと思って称える南無阿弥陀仏はまだどこか疑いのある念仏だ。お念仏したらお浄土へ行くのかどうか知らん。あるいは念仏は地獄へ行く道であるのか、それも知らん。そちらも私はなにも知らん。
ただ、「念仏せよ」と教えてくれた法然上人の教えを少しも疑っていないだけだ。”
 疑いを捨てるとはこういうことかと思わされます。
しかし、僕のような一般凡夫には、確信をもった信仰や崇拝、尊敬があればこその「信じる心」だと思うわけで、何もしらない人がこのように信じることだけを掲げている教えに対して警戒するのは不思議ではないと思います。ここのあたりは現代の宗教の難しさでもあると思います。


【煩悩即菩提】
曇鸞和尚の話が出てきました。
曇鸞さんの「無生の生」の話です。
極楽に生まれるときは、母の胎内から「オギャー」と生まれるわけでははい。
胎生だったらいつか必ず死ななきゃならない。
極楽にはそういう意味で「生まれる」ということがない。
人間が一般に言う「生まれる」ということじゃない生が往生です。
もはや死ぬことがないから、それを「無生の生」という。

曇鸞さんは、長生きの研究で中国で菩提流支(ぼだいるし)という僧に出会って「死なないいのち」のことを学ぶが、それを体得する以前に「この世のいのち」つまり「いつか死ぬいのち」をできるだけ延ばすということを本気でされた。
そして「煩悩が菩提に転ぜられる」という思想を持つことに。
生命は転ずる。ひっくり返る。煩悩のまんまで菩薩なんだと。
我を捨てたところに救いはあるという生命の論理を説いたものが「往生論註」という書物。

煩悩の問題を見て見ぬふりをしている限り、どんなに綺麗ごとを言ってもだめです。真理じゃない。
その問題を正面から直視しないと。


【ほんとうのいのち】
「生まれもしないし死にもしないいのち」それがつまり「ほんとうのいのち」
「死なないいのち」とは生まれる前のいのち。生まれてしまったか私からはじめるから死が怖くなる。(この世に)「生まれてしまったら」、「いつか死ぬ」から、初めは生ではなく、生まれる前の世界。 
その生まれる前には死ぬということがない。生まれなかったら、死にようがない。
生は生から来たのではなく、不生から来たのです。「生まれる前」は消えてしまった世界じゃない。この「いま」を常にあらしめている真の根源です。わたしたちはそこから来たわけ、だから死ぬことがない。
小出氏は「生まれもしない、死にもしないいのち」、これを「ほんとうのいのち」という。

この対談では出てきませんが、僕の解釈では「ほんとうのいのち」とは「魂」のことだと思います。
仏教ではあまり魂という言葉はでてきませんからね。
その「ほんとうのいのち」に気づいて生きることが「さとり」なのかもしれません。

浄土真宗にはあまり興味がありませんでしたが、真理があるのだと思えた対談でした。
 少しずつ勉強していきたいと思います。


長くなりましたが最後までお読みいただきありがとうございました。



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