2018年8月6日

「いま」という安らぎの中に生きること(小池龍之介)(読書録)

引き続き、小出遥子著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』の読書録です。

今回は第3回、月読寺住職 小池龍之介氏との対談です。

小池龍之介氏も著書が多く、何冊か読んだことがあります。
比較的わかりやすい本しか読んだことが無いのですが、この対談はかなり難解でした・・・

要点をまとめるとようするに「さとり」ではなく、「気づき」だということ。
しかも、その「気づき」というものが難解でした。

まず、自分の「思い」「考え」「感情」などは誰が行っているのか。

この対談で小池氏は明確な答え方はしていませんが、自分では無いというニュアンスの回答がされています。

“「思い」や「感情」など、今あらわれているものに気づいていることが大事。 
絶えずそれに気づいて、薄皮一枚離れたところから見るということをすると、自分の意思だと思い込んでいるはずのものが、おのずから湧き上がってくるとしか言えないやり方で、そこに浮かんでくることに気づくでしょう。”
言い換えると、浮かんでくる「思い」や「感情」を俯瞰してみると、それらが自分のものではないということを感じる(わかる)ということだと思います。

とにかく、どのような時も自分に気づくということが大切だということです。

次に出て来る小池氏の「漆黒の闇の中に光る階段」という公案が大変面白いものでした。

“無限の宇宙に透明な階段がずーっと連鎖して、新しく現れた一段だけが光り、次の瞬間、次の一段が光って、前の一段の明かりが消えます。この光っている一段が、まさしく、今考えていることや、今思っていることや、今言いたいことなどをあらわしています。”
では、いまこの一段は誰が光らせているのか?

“情報の接触に対する自動反応として、絶えずあらたな思念が生成し続けるだけで、それらの思念が「私のものだ」「私の本質だ」といった思い込みがとけるのです。” 
“気づきを保っていれば、いまの考えや気分や情念は、前の段階からの必然的帰結として自動的に生じていて、「私が考えている」とはいえないことがわかってしまいます。”
“思い込みがとけて、何が残るのかというと、「人」はどこにもおらず、ただ階段だけが残る。その一段がただ光っているだけなのです。” 
 これは一つの例えでしょうけど、自分で自分の心と思っている部分が、自分ではないという真理なのでしょう。

そう思えば、ますます自分は何なのかという疑問が湧きますが・・・

対談の後半は、やはり「気づいて生きていく」というような内容になっていきます。

イメージしたときに現れるのが階段。
薄皮一枚を隔てたその中には絶対に傷つかない領域があり、それは「気づき」があるだけだから。
その傷つかないで生きていくということが大事なこと。
「気づき」になりきって、なんの判断もせず、なんの評価もせず、意味を見出さず、解釈せず、ただの鏡になっておくこと。あとは全自動洗濯機のように眺めておくと、私が変わるのではなく、おのずから変わっていく。

最終的に「はなにものでもなく、なにものにもならず、ただ、気づいていよう」という事でした。

この対談をまとめるのは苦労しましたが、自分が理解していないからだろうなと思います。
結局「さとり」よりも「気づき」が重要ということで終わりましたが、その例えを丁寧に説明してくれていて為になる対談だったと思います。

この内容をもう少しわかりやすく書いている本があれば良いと思うんですけどね。



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