2018年8月7日

自分をまるごと受け入れて生きること(堀澤祖門)(読書録)

引き続き、小出遥子著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』の読書録です。

今回は第4回目、三千院門主 堀澤祖門氏との対談です。

今回は比較的わかりやすい内容ながらも、とても満足度が高く、有意義なお話でした!

まずは、他の方の対談でもでていたように、「さとり」を否定するようなことからはじまります。
否定ではなく、「さとり」という概念、観念を持ち込んだことを問題視しています。
“このままで仏なんだっていうことよ。しかし、それが気がつくまでが大変だ。”
 まさに、頭でわかっているけど、実感できるか、体感できるかということでしょう。
“我々はふだんは分離の世界を生きているんだ。でも本質的にはひとつなんだな。ひとつであるということが基本なんだから、分離していてもいいんだ。”
わかりづらいけど、ひとつということがわかるっていうのが大事なことなんだと。

ここでいうのは「さとりの世界」と「いまの世界」ということ。本来は同じであるということ。

そうなのか・・・となんとなくしかわからないけど。
“瞑想=やっていることと自分がひとつになっていること” 
同時にいろんなことをするのは、集中の妨げになること。いま自分がなにをしているのかそのことに気づいているときは、やっていることと自分とがひとつになっているということ。
もうね、いろんな人が同じ事を言っています。
プラユキナラテボーさんがおっしゃっている「気づき」と同じです。

続いては、自分が仏であることを認めることの話。
ティク・ナット・ハン氏は「幸せへの道はない、幸せこそが道だから」
白隠禅師は「衆生本来仏なり」
そして、堀澤氏は「仏になる道はない、すでに仏なんだもん」と。
「すでにそれであることを認めるだけ」と小出遥子氏。

“みんな泥をかぶった仏なんだ。その泥をあんまり気にするからいけないんで、気にしなければいいんだ。”
気にするから問題になる。泥を気にしだしたら、それを落とさなければいけないと思ってしまう。しかし、その気持ちが仏であることを認めるのを邪魔してしまう。

一元絶対と二元相対の世界という話が出てきます。
「一元絶対」とは「空」、「二元相対」とは「色」と説明されています。
“天台では「絶対妙」「相対妙」ともいうそうで、相対妙は相対関係の妙。
絶対妙は、対立関係を絶したという意味での絶対。つまり「空」”
「空」には大きさがなく、宇宙とひとつということ。
面白い例えとしてこう書かれています。
“無数にシャボン玉が浮いているとして、シャボン玉ひとつひとつは、膜に包まれた空気を自分だと思っている。でも割れたら空間全部が「それ」になります” 
人間ひとりひとり、自分もシャボン玉だとすれば、確かに元は外の空気(宇宙)と同じ。
分離しているように思っても、同じなんですよね。
そう思うとなんだか気が楽になります。

堀澤氏は、いまの仏教界、宗教界をなんとかしたいと思っています。
巷でよく聞く仏教界の問題といえば、檀家の減少とか、後継やら、収入やらの問題をよく聞きます。
しかし、この本に登場するお坊さんがそんな事は言わないですね。
堀澤氏、宗教家が「自分は宗教家」だと思っていることが枠で、枠に縛られているといいます。
そして、宗教が本質を失っていると。
特に仏教界のことで、宗派仏教というのが、過去に向かっている、未来に向かっていない。お祖師さまが絶対であるとなっている。
道を求める心を持った坊さんがなかなかいない。

堀澤氏と共著した「阿部敏郎」さんの言葉
“いまは我々が釈迦を拝む時代じゃない、我々が釈迦を生きる時代なんだ”
名言ですね。まさにそうだと共感します。
拝むのではなく、一人一人が向上していくことこそが仏教だと心底思います。

最終的には、「色」(実有)にとわわれず、「空」を感じて、そこを生きていくこと。
みんな仏なんだから、比較する必要もない、争う必要もない。
みんなひとつワンネス。そこに気づけば争いがなくなる。
・・・
最後は平和志向になってきました。

「つながっていることに気づくこと」
これが大切なんだと感じました。



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