今回は第5回、如来寺住職の釈徹宗氏との対談です。
釈徹宗氏は、浄土真宗のお方。
浄土真宗の方に「さとり」の事を尋ねるのも興味深いです。
釈氏は「物語」という言葉で様々なものを説明されます。
“我々は物語の中に生きています。「私」という存在も、この世も、あの世も、愛も宗教も、すべて物語であり、虚構であり、共同幻想です。少なくとも仏教では「私」や「世界」をそのようにとらえようとします。”(「死では終わらない物語について」(釈徹宗著)あらゆるもの(概念)は幻想であり、夢である。そのようなことはよく聞くことだし、なんとなくはわかっているのですが、実際に生きていると、生まれてから死ぬまでやはり連続しているし、基本的に過去の記憶は正しいものですし、学んだことは次に活きている。
だから、幻想、夢、物語と言われても実感が無いものなのです。
ではどのようにして、物語ということを実感することができるのかが問題だと思うのです。
“今晩息を引き取るとしたら、自分は今日これから何をするだろう?そうしたら、もう少し日常が整理されて、自分がなにを大事にしているのかがわかるかもしれない。それこそがほんとうの終活じゃないか。宗教という「物語」に出会うことが最大の終活になるのではないか”
“死をも超えて続く物語を持っているところにこそ、宗教ならではの特性はあります。”「宗教」というおおきな括りではありますが、宗教に関わりを持っていない人にとってみれば、突然「死」を感じたときにどう心が変化するのだろうかと思います。
ここでいうように急に一日を大切に思ったり考えたりすることでしょう。
そして、宗教という目に見えない非科学的なものに頼るようになってくることはあるでしょう。
それが第一歩になるのかもしれません。
【物語と救い】
救いについてはこう書かれています。
“「物語」に自分をゆだねることができれば、身も心もゆだねることができればその人は救われる。親鸞は「阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」と自覚していた。他の救済ストーリーでは駄目だと。私のための「物語」に出会うと、もう他の物語で代替することは不可能です。そのとき、人は間違いなく救われます。そのとき「物語」は私にとって「真実」となるといえるでしょう。”本では、対談形式なので比較的わかりやすく書かれています。
が、何度か読み返しましたが、わかるようでわからない。
「物語」の解釈が自分の中で間違っているのかもしれません。
「あらゆるものが物語である」とすれば、そこに「ゆだねる」という意味、感覚が今の僕では理解ができないのですよね・・・・・・・
【信心を得る】
“浄土真宗では「さとりをひらく」というところをあまり強調しません。代わりに、「信心を得る」というのを大きな問題にします。僕にとっては大変難しい内容です。
親鸞はこの信心を「如来よりたまわる」と表現します。また、「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり。」という和讃があります。
つまり、如来から廻施された信心を得るとは、「さとり」と同義なのです。”
漠然と信心とは信仰であるという感覚ではわかるのですが、もっと詳しく説明がないとわかりません。
「信心」は「さとり」と同様に難解であります。
【他力】
“もともと仏教は私がさとりをひらいて仏になる<仏←私>という方向です。でも法然上人は、仏が私を救う<仏→私>と方向を逆転してしまうんですね。仏教の脱構築です。”
“親鸞は「逃げる者を追いかけて、後ろからとっつかまえるようなのが仏の救いなのだ」と述べている。”
まさに他力の思想です。
この思想で救われるということも十分あると思いますのでもっと知りたいとも思います。
しかし、もともとの仏教や禅宗などの考えからすれば、驚くほどの転換。そして脱構築って・・・
僕個人が思うことは、これは仏教でありながら仏教では無いのではないかとさえ思ってしまいますが、こう思うのはまだ理解が足りないからでしょうか。
釈氏は出家者と在家者の差異がないのが日本仏教の特徴といいます。
日本の宗教性には世俗を捨てて聖なる生き方を目指す方向性よりも、世俗の中で苦悩しながら生き抜く方向性を評価する感性がある。
結果的に日本仏教は出家の形態が崩れ、戒律も変化し、ふつうに社会生活や家庭生活を送る方向へと進んだのですが、日本の仏教がだめになった部分も多々あります。
しかし、大陸から仏教が伝わった段階からその方向を示していたとも言われます。
日本の最初の書物は『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』(法華経、維摩経、勝鬘経(しょうまんぎょう))で、いずれも出家者と在家者との差異を解体する方向性を持っていたとされます。
「維摩経」にいたっては、在家者優位の経典です。
【仏教=人間の過剰な部分と付き合っていく道筋】
“人間以外の動物はあんまり無駄なことをしない。人間はおなかいっぱいでも好物を見たら食べてしまうとか、自分の遺伝子を残す以外の目的で生殖行為を行うとかします。基本的に過剰な部分っていうのが人類にはあるんですよ。
その過剰な部分にこそ、喜びの根源も、苦しみの根源もあるということには、早くから気づいていたと思うんですね。”
確かに「それ」を無駄と思えば無駄ですね。
無駄があるから成長した、無駄があるから苦悩が伴う。そう思います。
無駄はなくとも苦悩はあるとは思いますが、心や脳が発達していなければ苦悩はもっと少ないもののような気がします。
“(仏教は)滅するという思想も発達させてきたのですが、一方で、付き合っていく道も成熟してきたのです。もちろん滅することが究極の目指す地平ではあるんですけど、付き合っていく道もバカにできない。過剰な部分とうまく付き合うことができたのなら、苦しみや喜びを超えたところにある本質的な「よろこび」に到達できるとも説きます。”
ポイントは、「滅すること」でどうなりたいのか?、「付き合うこと」でどうなりたいのか?
「付き合うこと」で「よろこび」を得るとありますが、「よろこび」を求めている人には良いが、そうでない人には「付き合う」ということはあまり意味をなさないと思います。
ここを履き違えないほうが良いと思いました。
【消費者体質のままでは、救いの物語とは出会えない】
“今は檀家制度も崩れてきているし、ずっと同じお寺に通い続けるのは一般的なことではなくなっています。カルチャーセンターとかだとひとつのコンテンツのパッケージがうまくできあがっていて、受講者に購入してもらうかたちになっている。また、現代人にありがちなサービスを受ける体質、消費者体質そのものについても見直していかなくては。そうでなければ仏教的情報を活用するだけになってしまい、物語には出会えないということになってしまいます。”
不足しているものを欲して、もらうことばかりではいけないという事でしょうか。
とかく仏道というものは自分自身のことです。アドバイスとして情報は受け入れて、あとは自身で行動(心の行動も)することが大切だと思います。
浄土真宗の方に「さとり」のことを聴くは少し無理があるのかもしれません。
浄土真宗の教えはそれはそれで為になって面白かったのですが、趣旨がずれているような気がしました。
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