2018年8月5日

夢であると気づいた上で夢を生きること(横田南嶺)(読書録)

前回に引き続き、小出遥子著『教えて、お坊さん!「さとり」ってなんですか』の読書録の第二回です。

今回は臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺氏との対談です。


前半は「さとり」に執着するあまり間違いを犯す可能性があることを指摘しています。
“一生懸命やっていると寝ているやつはだめだって思っちゃうんだね。でもそれが迷いなんですね。自分が起きているからって、寝ているやつはだめだって考えたらそれはいけませんよ”
“教えとか修行とかいうことをやるとそれが執着になってしまうこともあるんです。・・・だからあんまりさとらんでもええんだと思ってたほうがいいと思うんですけれど” 
“「稲妻にさとらぬ人の貴さよ」 さとらぬ人も貴いではないかって。”
うーん、確かにこのように執着すると弊害はおきるかもしれません。しかし、その執着を危惧するがために、“さとり”に目を向けないということが良いのかは疑問と思います。
むしろ、その「執着」を無くすことを目指すのが仏教の教えだと思うのですが。



この対談のメインは「つながり」だと思います。

タケノコのように地上に出ているところだけを見て暮らしていると わからないが、土の中では繋がっている。
その様に人間も同じであり、嫌な相手も自分と異質なものではない。
「私」と「相手」の間に区別がなくなり、そもそも区別はなかったんだと無意識のところで気づく。
それが「慈悲とは理解である」ということだと。
(横田氏と小出氏の言葉をまとめたかたちですが)

その延長として、すべてがつながり合って存在しているということ。それが華厳の教えと説かれます。
“あらゆるものが、網目のようにつながり合っている。ひとつひとつのそれぞれが、相つながりながら、世の中は、全体として、実に絶妙な調和を保っている。決して孤立したものはない。 
そうかと言って全部統一する必要もない。本来的に、それぞれがそれぞれで相つながっているのだから。それが華厳の世界観なんですね。 
 それがわかると、自分の網の目のところで、自分の置かれた場所で、自分のできることを、自分の周りに、自分の役割として果たしていればいい。”

後半は「いま」がテーマになります。

仏教ではとかく「いま」が大切だと言われます。
(プラユキナラテボーさんの手動瞑想(気づきの瞑想)でもとにかく今に気付くことが目的です。)

“過去や未来のことを思い浮かべているのは紛れもなく、「いま」である。過去や未来を捨て去る必要はない。どのみち「いま」からは一瞬も離れていないのだから。 
禅の言葉で「いまが永遠である」「永遠がいまである」という言葉があります。「いま」がそのまま無限で、その中でいろんなものを感じているに過ぎないんじゃないでしょうか。”
そう言われるとそうかなと思いますが、実はこの「過去・現在・未来」問題(笑)、言葉ではわかっても、僕の中ではいまいち実感ができていないんです。
いつか理解、実感ができる日がくるのでしょうか。
今後の課題ですね。

最後は「夢であると気が付いて、夢を楽しむ」ということ。

苦しいことも、楽しいことも夢であるということ。
“映画も現実ではないことはわかっているのに泣いたり笑ったり、怒ったりします。でも、映画だから、根本のところでは安心してやっていられるんですね。 
良い映画を観るように、この世の中を生きていこう。夢であると気がついて、その上でたのしく夢を見ていきましょう。 ”
こういう言い方はよく聞きますね。わかります。
けれど、これも頭でわかっていても、実感というレベルまで 達していないのが現実です。

というより、楽しく夢を見るのが目的ではなく、そこで終わって良いのだろうかという疑問が起こります。その先を知りたいと思うのですが・・・

いつか気づくことができるでしょうか。


前回の藤田一照氏の話とは角度が違う気がしましたが根本的なお話を聞けたような気がしました。



イイネ評価はクリックいただけると嬉しいです。
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿